先生: この前はね、無知の疑のことを説明したけど分かったかな?
私: まぁ、分かったような分からないような。先生のお話は、いつもそんな感じ
なんですけどね。
先生: 実はね、こだわりも「疑」なんだよね。
私: え?こだわりがですか?
先生: このあいだ言ったでしょう。皆がそう信じてるから、なんていうのはよくありませんよって。
私: ああ、何も考えずにボーッと行動しちゃいけませんって仰ってました。
先生: そうそう、憶えてた?
私: ま、それぐらいは・・・。
先生: 君ね、お葬式の時に数珠は持ってく?
私: ええ、持って行きますよ。一応、それが普通じゃないですか?
先生: どうして?なんで持って行くの?だいたい、どうして葬式には黒い服じゃなければならないの?
私: それは、そう決まってますし、常識でしょ?
先生: そうね、まぁ、しきたりだしね。で、数珠を持ってない人とかがいたとしたら、君はどうする?
私: 特に何も。持ってた方がいいかなぁとか思うかもしれませんが。
先生: そこまでならいいのね。そういうときに「あなた数珠を持ってませんね。それはいけませんよ。」なんて言うのは、意味のない儀式に強引に意味づけしようとしています。こんな風に、理由もなく伝統的に行っている儀式・儀礼に対して、重大な意味があるように思い込む錯覚も、疑・無知の極みです。無知に基づいて他人を非難し始めるならば、無知の上に怒りも加わります。研究して調べて、意味を発見する場合には「疑」になりません。
私: ふーん、そういうことですか。
先生: 後ね、「疑」が絡んでいる問題がもう一つあります。それは輪廻転生のことなんだけどね。
私: 輪廻転生は因果のことですよね。
先生: そうそう、大事な概念です。輪廻転生という事実があるからこそ、人は必ず道徳的に生きていなくてはいけないのですね。
私: 輪廻転生って事実ですか?
先生: そうそう、問題はそこにあってね。その輪廻転生が本当かどうかを発見することはできないということです。
私: 認めない人たちもいるってことですね。
先生: でもね、「絶対に認めない」と言っても証拠はないからね。輪廻が絶対にないというなら、人間は死んだらそこで終わりだ、ということを科学的に証明しなければなりません。証拠もないのに現代科学では認められません、なんて言っても駄目ですよ。現代科学を使っても証明はできないでしょう?風邪の絶対的な特効薬すらないし、ましてや癌の解明もできてはいません。おまけに輪廻は人間の通常の知識レベルを超えてますしね。絶対にないと言うよりもむしろあると思う方がいいぐらいではないでしょうかね。いずれにせよ、輪廻転生が無いというのも、信じるというのもどちらも証明できないのですから、盲信するのは無知の「疑」に入るのです。